福岡県春日市須玖北4丁目34 2階
休診日: 水曜・木曜・日曜・祝日

はじめに

長く勤めた仕事を終えた。あるいは、ずっと一緒に暮らした親を見送った。そのあたりを境に、何とか回っていた暮らしが急に立ちゆかなくなることがあります。片づかない。書類が進まない。家のなかで言い合いが増えた。「歳のせいか」「新しい病気か」と考えることになります。

新しく何かが始まったとは限りません。 それまで暮らしを成り立たせていたもの――決まった時刻に行く場所、果たすべき役割、一日の区切り、親という実際的な支え――が外れたことで、もともとあった苦手さが、はじめて困りごとの形をとった、ということがあります。

大事なのは、何が外れたのかを一つずつ確かめることです。毎朝の時間割が無くなったなら、朝に出かける用事を一つ置く。届いた書類を見てくれる人がいなくなったなら、届いたものの置き場所を一か所にする。受診を促してくれる声が無くなったなら、次の予約をその場で取る。「困ったら聞ける相手」を失ったなら、書類のこと、体のこと、話を聞いてもらうことを一人に集めず、それぞれ別の相手を考えます。失われたものに名前がつくと、打つ手も具体的になります。

この記事は年齢でも働き方でも線を引きません。定年のない働き方の方にも、決まった予定と役割が無くなる時期は訪れます。下敷きにしたのは、成人を長く診てきた大学病院の精神科医と、発達障害専門クリニックの児童精神科医との対談の本です。性別で決まる話としては扱いません。

何が、その方を支えていたのか

仕事には、給料のほかに目立たない働きがあります。起きる時刻と寝る時刻。「今日は何をする日か」に自分で答えなくてよいこと。話しかける相手と場面。「もう終わりにしてよい」という合図。どれも勤めに付いてきたものです。対談には、人との関わりが苦手でも、決まった活動のある通所の場には通えている方の例が出てきます。役割さえ定まっていれば果たせる。勤めは、その「定まった役割」が長く用意されている場所です。定年で無くなるのは収入だけではなく、何時に起きるかを決める理由と、今日を何の日と呼ぶかの答えです。

もう一つの見えにくい支えが、親です。対談では、知的障害のない発達障害の高齢の方について、表向きはやっていけていても親御さんに頼って暮らしている方が多いことが指摘され、成人のASDの方は親と同居している割合が高いという英国自閉症協会の調査が引かれています。届いた書類の判断、期限の見分け、役所や銀行への電話、受診の後押し、「困ったらまず相談する先」は、離れて暮らしていても親が担っていることがあります。親御さんに病気や認知症の変化が起きたとき、あるいは見送ったときに、その負担が表に出ます。

からだの管理も同じです。「病院に行く」は、これは診てもらったほうがいいと気づき、何科にかかるかを決め、予約を取り、その日まで覚えておき、診察で話し、次の予約を入れるという手順の連なりです。どこかで詰まると全体が止まります。勤めがあったころは健診の通知が職場から来て、親が「そろそろ行ったら」と言ってくれました。その二つが無くなると、この連なりを自分で組み立て続けることになります。

枠があるうちは、見えにくいこと

発達の特性は点ではなく線で、揺れ幅はあっても長く続いています。うまくやれているように見える方も、実はかなり力を使っていて、いつも踏ん張り続けている感覚、素の自分ではない形でまわりに合わせ続けている感覚を抱えていることが多い。対談で、診療のなかの実感として語られていることです。

周りの人が見ているのは、いつも結果のほうだけです。遅刻せず、仕事も仕上がっているから、何とかなっていると見える。その裏で、前の晩に何度も持ち物を確かめていたことは誰にも見えず、ずっとそうしてきたご本人自身も「余分な力」とは思っていません。だから、枠が外れたときに起こることは、周りからは急な変化に見えます。実際には、抱え続けてきたものが、抱えきれなくなっただけということがあります。続けてこられたことは、負担が無かったことを意味しません。枠があるあいだは、その負担が困りごとの形をとらないだけです。枠が外れれば必ずこうなる、という話でもありません。困りごとなく退職後を過ごしている方もおられます。

枠が外れたあと、どんな形で出てくるか

すべてが必ず起こるわけではありませんが、よくある形があります。

家のなかで摩擦が増えます。 家族と過ごす時間が増え、「こんなに短気な人だとは思っていなかった」と言われる形です。起きているのは「時間が増えた」ことより、「一人になれる時間が無くなった」ことかもしれません。昼食の時刻やテレビをつけるかどうかなど、一人で決めていた小さなことが急に相談ごとになる。言い合いは、こうしたところから始まります。

話せる相手がいなくなります。 仕事を離れて、深い話はしなくても毎日顔を合わせていた相手がいなくなると、以前はいろいろな人に散らばっていた「聞いてもらう」の役割が、残った家族や主治医に集中します。その先には孤立があります。郵便物が溜まる。通院の間隔が延びる。何日も声を出していない。相談は、困り切ってからでなく、うまく説明できない段階でも構いません。

親を見送ったあとに、混乱が来ることがあります。 対談では、50〜60代のASDの方で、仕事は続けていても暮らしは親御さんに頼っていて、見送ったあとで途方に暮れる方がおられる、と語られています。背景として、この本は先の状況を思い描くことの難しさ(イマジネーションの障害)を挙げています。失われるのは、実際に引き受けてもらっていた手続きと、「困ったらあの人に聞く」という判断の最後の受け皿です。後者は失われたことに名前がつきにくく、何かを決めるたびに止まり、片づかない、書類が処理できない、という形で表に出ます。悲しみそのものの経過は大切な人を亡くしたあとのこころにあります。

からだと気分にも出ます。 落ち込み、いらだち、不眠として表れることがあります。勤めが無くなると起床時刻がぼやけ、次に就寝時刻もぼやけるので、「不眠が始まった」と感じても、順序は生活の枠が外れたほうが先のことがあります。うつや不安そのものはASDのうつ・不安(二次障害)に、年齢を重ねてからの気分の落ち込みは老年期うつ病の治療と回復にあります。

一緒にいる時間を増やすことが、答えとは限らない

退職後のご家族との関係について、対談では、同じ時間と同じ場所にいることが良いつきあいとは限らず、意味のある時間を分かち合えているかどうかのほうが肝心だと語られています。退職後はそれぞれ別に過ごしてよい。考え方を改めるより、日々の暮らしを組み替えるほうが届く、とも述べられています。

ここは対談の見立てで、当院からのおすすめではありません。「一緒にいた時間の長さ」を関係の成績表にしない、という話です。関係そのものはパートナーとの関係が、こころの健康を左右する理由役割期待のずれと心理療法にあります。暴力や強い支配のある関係のなかでは、この節を距離の取り方の工夫として読まず、身の安全の確保を先にしてください。安全が脅かされているときにまとめてあります。

「いま始まったのか、ずっとあったのか」を確かめる

高齢の方でも若い方でも、確かめる中身は基本的に変わりません。社会性、コミュニケーション、イマジネーション、感覚過敏。この四つが、どのくらい続いてきたかを見ます。幼いころのことは分からなくても、学齢期から先はご本人が覚えています。段取りの難しさや感覚の敏感さも、発達の特性によるものなら、一時的ではなく長く続いてきたはずだ、という見方です。

いま起きていることだけを見ると、「気分が沈む」「片づかない」というよくある形に見えます。そこで「いつからか」の線を引きます。去年からなら、その前後に何があったかをたどる。勤めをやめてからなら、外れたものを数える。思い返せばずっとそうなら、「何が変わって表に出たのか」を確かめる。どれに当たるかをご自分で決める必要はなく、「いつからか、よく分からない」もそのまま材料になります。

親御さんを見送ったあとで当時のことを尋ねる相手がいなくても、受診の妨げにはなりません。詳しくは生育歴を尋ねられる意味大人のASDの診断の流れに。もの忘れそのものの心配はそのもの忘れ、「歳のせい」と言い切れますかにあります。

「適当に休んでください」では、動きようがない

対談には、気分が落ち込んでいるASDのある方に「適当に休んで」と伝えたのでは通じない、という話が出てきます。どのくらいが「適当」なのかが、示されていないからです。語り手の一人はこれを教わってから、漠とした言い回しを避け、何時から何時までを休む時間に、という形で伝えるようにしたと語っています。

勤めがあったころは、「適当に休む」の中身が外側から決まっていました。枠が外れたあとでは、当てはめる先がありません。一日中家にいるのだから、ずっと休んでいるとも、一度も休んでいないとも言える。休みが終わる合図が無いので、休んだという感じが残らないのです。決めるのは「どれだけ休むか」ではなく、どこで始まってどこで終わるか。昼食までを休みにする、この番組が終わったら起きる。中身は何でもよく、自分の外側に区切りの目印があることが効きます。どのくらい休めばよいか分からないときは、診察でそのまま尋ねてください。休めないこと自体の心の働きは休んでいいと言われても休めないにあります。

受診と相談の目安

次のようなことが続いているときは、年齢のせいか枠のせいかを見当づけるより先に、ご相談をお考えください。

  • 眠れない、食事が取れない、体重が変わってきている
  • 気持ちの落ち込みや、何をしても楽しくない状態が続いている
  • いらだちが強くなり、些細なことで声を荒げてしまう
  • 一日の見当が立たず、朝から何をしたらよいか分からない
  • 書類やお金の手続き、受診や健診の予定が滞っている
  • 家のなかで言い合いが増え、居場所がないと感じている
  • 何日も人と話していない
  • 頼ってきた方の入院や病気、死別で、支えが途切れて暮らしが回らなくなっている

定年前でも、親御さんがご存命でも、どうするかを決めかねている段階でも、ご相談いただけます。暴力や強い支配のある関係のなかで体調の変化が出ているときも、ご自身の受診としてご相談いただけます。自分や他の人を傷つけそうな考えが出ているとき、食事も水分もほとんど取れていないときは待たず、通院中であれば主治医へ連絡し、命に関わる切迫した状況ではためらわず救急(119)を利用してください。

当院での実際

当院は福岡県春日市の精神科・心療内科です。WEB予約(デジスマ)のうえ、初診前のWEB問診にお答えいただく形です。問診は「定年のあとから調子が出ない」程度でも構いません。初診の所要時間の目安は問診を含めて30分程度、通院は2週間に一度が基本で、再診の目安は5分前後です。

成人(18歳以上)のASD・ADHDの評価と診断を、問診(診察での聞き取り)を中心に行っています。心理検査(知能検査・心理テスト)は行っていません。ご希望の場合は実施している医療機関をご自身でお探しいただくことになりますが、紹介状(診療情報提供書)は必要に応じて作成します。うつや不安で受診された方も、必要に応じて背景に発達特性がないかという視点で診察します。

老年期のうつ病は当院で診ています。認知症の診療は積極的には行っておらず、認知機能検査も行っていません。実施している医療機関はご自身でお探しいただくことになりますが、紹介状は必要に応じて作成します。すでに認知症の診断がついている方のうつのご相談もお受けしています。

カップル療法・夫婦カウンセリングは行っていませんが、診察のなかで対人関係の整理や相手の方への伝え方の助言を行っています。ご家族のみの相談はお受けしていません。ご本人が受診され、同席に同意されている場合には、ご家族に同席していただけます。ご本人がどうしても受診できない場合は、保健所や精神保健福祉センターなどの公的相談先、または受診予定の医療機関への問い合わせをご案内しています。ご家族ご自身の不調を診てもらうための受診は、それとは別で、ご自身の受診としてご相談いただけます。

相続や保護命令、離婚調停といった法的な手続きのご相談はお受けしておらず、専門の窓口をご自身でお探しいただくことになります。

まとめ

勤めを終えたあと、親を見送ったあとに暮らしが立ちゆかなくなったとき、新しく何かが始まったとは限りません。暮らしを成り立たせていたものが外れて、もともとあった苦手さが、はじめて困りごとの形をとったのかもしれません。外れたものに一つずつ名前をつけ、いつから続いているのかを確かめる。その作業は診察で一緒にできます。原因の見立てを、ご自分で決めてから受診していただく必要はありません。

そのほか近いところにあるもの ── 40代・50代で診断がついた女性たち生活の変わり目と役割の変化大人のASDとは診断がついたあとの過ごし方高齢者のうつ病は気づきにくい大学の履修やゼミで動けなくなること


参考にした資料(要約・再構成。原文の転載ではありません):

  • 宮岡等・内山登紀夫『大人の発達障害ってそういうことだったのか その後』(医学書院、2018年)第1章および第5章のうち、生活環境の変化と発達の特性の現れ方をめぐる対談部分

よくある質問

定年をきっかけに調子が悪くなりました。年齢のせいなのでしょうか、それとも何か新しい病気が始まったのでしょうか。

どちらかに決めていただく必要はありません。暮らしの条件が入れ替わったところで、それまで表に出ていなかったものが困りごとの形をとる、ということがあり、原因が一つに決まる話でもありません。年齢を重ねてからの気分の落ち込みについては「老年期うつ病は治療で良くなる——高齢の方のうつ治療と回復の道すじ」と「高齢者のうつ病は気づきにくい もの忘れ・体の不調に隠れるサイン」があります。当院では、老年期のうつ病の診療を行っています。原因の見立てを、ご自分で決めてから受診していただく必要はありません。

定年のある働き方をしてきませんでした。この記事は自分には関係がありませんか。

関係がないということはありません。この記事が書いているのは、決まった時刻に行く場所があること、果たすべき役割があること、一日の区切りが自分の外側で決まっていること――そうしたものが無くなったときに何が起きるか、という話であって、定年という制度そのものではありません。自営で働いてこられた方、家のことを担ってこられた方、契約の区切りで仕事を離れた方、看病や介護をしてこられた方にも、その時期は訪れます。役割が入れ替わることそのものは「転職・離婚・進学…生活の変わり目がつらいとき 役割の変化と心理療法」にあります。

親を見送ったあと、何から手をつけたらよいのか分からず、頭が働きません。

何から手をつけたらよいか分からない、という状態そのものを、そのまま診察でお話しいただいて差し支えありません。整理してからお越しいただく必要はありません。ただ、自分や他の人を傷つけそうな考えが出ているとき、食事も水分もほとんど取れていないときは、待たないでください。通院中であれば主治医に連絡し、命に関わる切迫した状況では、ためらわず救急(119)を利用してください。悲しみそのものの経過については「大切な人を亡くしたあとのこころ――悲しみは病気ではありません。それでも、受診が支えになるときがあります」にあります。

退職してから家族と過ごす時間が増え、言い合いが絶えません。二人で受診したほうがよいでしょうか。

当院ではカップル療法・夫婦カウンセリング(お二人で来ていただいて行う治療)は行っていませんので、二人でお越しいただく形はご提案していません。ご自身の受診としてご相談いただけます。診察のなかでは、対人関係の整理や、相手の方への伝え方についての助言を行っています。関係そのものの扱い方は「パートナーとの関係が、こころの健康を左右する理由」「家族や夫婦との『すれ違い』がつらい 役割期待のずれと心理療法」にあります。なお、暴力や強い支配のある関係のなかにいる場合は、この答えを当てはめず、身の安全を確保することを先にしてください。相談先を含めて「安全が脅かされているとき ── 関係改善の話が当てはまらない場面」にまとめてあります。そうした関係のなかで出てきた症状についてのご相談は、当院で承っています。

下敷きにした本には、定年後の困りごとを性別と結びつけて語っている部分があると聞きました。

あります。定年を迎えたあとに何をしたらよいか分からなくなること、家に居場所がなくなることについて、下敷きにした対談の本には性別を伴った語り口の部分があります。この記事はその部分を引きませんし、性別で決まる話としても扱いません。勤めを離れたあとの居場所のこと、家のなかでの摩擦のことは、どの立場の方にも起こりうることとしてお読みください。

もの忘れが増えてきました。認知症ではないかと心配です。

加齢によるもの忘れと認知症の違いについては「そのもの忘れ、『歳のせい』と言い切れますか——家族が気づくサインと受診の目安」に、年齢を重ねてからのうつが良くならないときの見直し方については「年齢を重ねてからのうつが良くならないとき、うつという見立てそのものが確かめ直されることがあります」にあります。当院についてお伝えすると、認知症の診療は積極的には行っておらず、認知機能検査も当院では行っていません。実施している医療機関はご自身でお探しいただくことになりますが、紹介状(診療情報提供書)は必要に応じて作成します。一方で、老年期のうつ病は当院で診ています。すでに認知症の診断がついている方でも、うつについてのご相談はお受けしています。

暴力や強い支配のある関係のなかにいます。この記事は当てはまりますか。

当てはめないでください。手が出ていない場合も同じです。怒鳴られる、物を壊される、黙り込まれて折れるまで待たれる、「あなたが悪い」と正しさを盾に責め立てられる、昔のことを何度も持ち出される、病気であることを持ち出して思いどおりに動かされる、暮らしのお金を渡してもらえない、出かけることを許してもらえない、行き先をいちいち確かめられる、怖くて向き合えない――そういう形で相手を思いどおりに動かすために力が使われている関係も含みます。相手が配偶者やパートナーの方であっても、親御さんやきょうだいであっても、同居しているどなたであっても同じです。この記事に出てくる、過ごし方の距離を測り直すという話や、当時のことをご家族にも尋ねるという話は、そういう関係のなかでは当てはめないでください。診察に同席していただく必要もありません。おひとりで受診していただけます。身の安全を確保することが先になります。相談先を含めて「安全が脅かされているとき ── 関係改善の話が当てはまらない場面」にまとめてあります。そのうえで、そうした関係のなかで出てきた症状についてのご相談は、当院で承っています。ご自身の受診としてお話しください。保護命令や離婚の調停といった法的な手続きのご相談は、当院ではお受けしていません。

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執筆・監修

精神保健指定医 野口晋宏

春日メンタルクリニック院長。精神科・心療内科の診療経験をもとに、受診前の不安や制度の疑問を整理しやすい情報提供を心がけています。

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