はじめに
転職して新しい職場になじめず、毎朝おなかが重い。離婚を経て、一人の生活に気持ちがついていかない。希望していた進学や昇進だったはずなのに、なぜか心が晴れない。あるいは、思いがけない病気の診断を受けて、これまでの自分の生き方が揺らいでしまった。
こうした「生活の変わり目」で気分が落ち込むことは、決して珍しくありません。「うれしいはずの変化なのに落ち込むなんて、自分が弱いからでは」と感じる方もいますが、そうではありません。大きな変化は誰にとってもストレスで、新しい状況に慣れるにはエネルギーと時間が必要なのです。
この記事では、こうした変わり目のつらさを「役割の変化」という視点でとらえ直す考え方を紹介します。これは対人関係療法という心理療法で使われている考え方です。「いま自分に何が起きているのか」を整理できると、霧が晴れるように気持ちが軽くなることがあります。
なお、気分の落ち込みが続く場合に診断や治療方針を決めるのは医師の役割です。この記事は理解を深めるための情報として読んでいただき、つらさが強いときは早めに専門家に相談してください。
「役割の変化」という考え方
私たちは社会の中で、また身近な人との関係の中で、それぞれ何らかの「役割」を持って暮らしています。会社員として、親として、学生として、地域の一員として——。その立ち位置や人とのつながり方が変わることを、対人関係療法では「役割の変化」と呼びます。
たとえば次のような出来事は、すべて「役割の変化」として整理できます。
- 転職・昇進・異動・失業など、仕事をめぐる変化
- 結婚・離婚・出産・子どもの独立など、家庭をめぐる変化
- 進学・転校・引っ越しなど、生活の場をめぐる変化
- 病気の診断や、けが・加齢など、身体をめぐる変化
これらは一見ばらばらに見えますが、「これまでの役割」から「新しい役割」へ移っていく途中だ、という点で共通しています。
ふだん私たちは、「まあ、何とかなるだろう」という感覚を持って暮らしています。これは、慣れた役割の中で自分の歩く道を知っているからこそ持てる感覚です。ところが大きな変化に直面すると、この「何とかなる」という感覚が一時的に失われます。「自分はやっていけるのだろうか」「何をしたらいいのだろう」という不安に包まれ、まるで霧の中で道に迷ったような心細さを感じるのです。
「整理する」だけで霧が晴れることがある
役割の変化のつらさには、ひとつ大切な特徴があります。それは、「いま自分に起きていることを正しく整理する」こと自体が、気持ちを大きく楽にしてくれる場合がある、ということです。
変わり目で落ち込んでいる方の多くは、「何が起きているのかわからないまま、ただ事態が悪くなっていく」ように感じています。これは、濃い霧の中で遭難してしまったような状態です。
ここで、「自分はいま役割の変化のただ中にいる」と捉え直せると、見える景色が変わります。自分は遭難しているのではなく、ある地点から次の地点へと「移動している」だけなのだ——そう思えると、大きな安心感が生まれます。向かうべき方向が少しずつ見えてくるのです。「自分が弱いから落ち込んでいる」のではなく、「大きな変化に向き合っている途中だから、いまは大変なのだ」と理解できることには、それだけで力があります。
落ち込んでいると、見え方がかたよる
役割の変化のもうひとつの特徴は、気分が落ち込んでいるときほど、ものの見方がかたよりやすいということです。
ほとんどの変化は、それ自体が「良いもの」でも「悪いもの」でもなく、良い面と悪い面の両方を持っています。ところが不安や落ち込みが強いと、人は 古い役割の良い面 と 新しい役割の悪い面 ばかりに目が向きがちです。
たとえば、つらい思いをさせられていた上司のもとを離れて異動するときでも、「あの人にも良いところはあった」と懐かしく感じ、新しい部署の不安ばかりが大きく見えてしまう。離婚を選んだ人が、過去のつらかった日々ではなく、失われた家庭の温かい瞬間ばかりを思い出してしまう。これはとても自然な心の動きです。
だからこそ心理療法では、意識して 古い役割のつらかった面 と 新しい役割の良い面・新しく開ける可能性 にも目を向けていきます。バランスのとれた見方を取り戻すことが、変化を乗り越える助けになるからです。
感情を扱ってから、新しい役割を探す
「では、すぐに新しい役割の良い面を探せばいいのか」というと、順番が大切です。
役割の変化を乗り越えるうえで、まず必要なのは 失ったものへの感情を十分に表現すること です。変化には、たとえうれしい変化であっても、戸惑い・怒り・寂しさ・名残惜しさといった感情が伴います。これらの気持ちは、無理に押し込めるとかえって新しい環境になじむのを妨げてしまうことがあります。
「昔のことをいつまでも言っていないで、早く前を向かなければ」というプレッシャーを感じる方は多いものです。けれども、終わったことについての気持ちを表現してはいけない、という決まりはありません。むしろ、抑え込んでいた感情を安心できる場で十分に出せると、その後で新しい役割を前向きに受け入れやすくなることがよく知られています。
感情を扱う段階を経てから、次に進みます。
- 新しい役割の良い面や、新しく開ける機会を探す
- 「これならやっていけそうだ」という感覚を取り戻す
この「まず気持ち、それから前向きな整理」という順番が、役割の変化を扱うときのひとつの軸になります。
変化を難しくする要因と、その乗り越え方
役割の変化は、生きていれば誰もが何度も経験することです。それでも特につらくなりやすい、いくつかの条件があります。
身近な支えが途切れるとき
変化が引っ越しや転居を伴う場合、これまで愚痴をこぼせた友人や、相談できた家族との距離が遠くなりがちです。こうした 身近な支え(ソーシャルサポート) が途切れると、変化への適応はぐっと難しくなります。
支えが途切れるのは、物理的な距離だけが理由ではありません。たとえばつらい出来事を経験した人が、「これは普通の人にはわかってもらえない」「話せば気の毒がられてしまう」と感じて、近くにいる人にも打ち明けられなくなることがあります。心理療法では、こうして細くなってしまった人とのつながりを、もう一度育て直していくことも大切なテーマになります。
新しいスキルが必要になるとき
新しい役割では、これまで持っていなかったスキルが求められることがあります。慣れない作業を前に不安が大きくなるのは当然のことです。
ここで大切なのは、必要なスキルのすべてを自分一人で身につけなければならないわけではない、ということです。「同僚に聞いてみる」「少し待ってほしいと頼む」「自分に合った役割に調整してもらう」——こうした 相談する・頼むという形 でも、足りない部分は十分に補えます。多くの方はもともと対処する力を持っているのに、「迷惑では」「交渉なんてしたら煙たがられる」といった思い込みが、その一歩を踏みとどまらせていることが少なくありません。心理療法では、こうした思い込みを一つずつ確かめ、実際にどう伝えるかを一緒に考えて練習していきます。
長く続くつらさを「症状」として捉え直す
ここまでは、はっきりした「出来事」をきっかけにした変化を見てきました。一方で、はっきりしたきっかけがないまま、長い間ずっとつらさを抱えてきた、という方もいます。
慢性的な落ち込みや、人と関わることへの強い不安が長く続くと、人は「これは自分の性格だ」「自分はもともとこういう弱い人間なんだ」と思い込んでしまいがちです。けれども、その状態の多くは「人間性の問題」ではなく、 病気の症状 として理解できることがあります。
対人関係療法には、「自分の状態は性格の問題だ」という見方から、「これは病気の症状であり、治していけるものだ」という見方へと移っていく考え方があります。これを 医原性役割の変化 と呼びます。少しむずかしい言葉ですが、要は「『困った性格の自分』から『回復に向かう自分』へ」という、見方そのものの変化です。
「自分の問題だ」と抱え込んでいたつらさを「これは症状なのだ」と捉え直せると、これまで怖くて試せなかったことに少しずつ挑戦してみよう、という気持ちが芽生えてきます。なお、そのつらさが病気によるものかどうかを見きわめ、診断するのは医師の役割です。長く続くつらさがある方は、ぜひ一度相談してみてください。
受診の目安
以下に当てはまる場合は、無理をせず専門家への相談を検討してください。
- 生活の変わり目をきっかけに、気分の落ち込みが2週間以上続いている
- 眠れない、食欲がない、何をしても楽しめないといった状態が続く
- 仕事や家事、学業など、日常生活に支障が出ている
- 「自分はダメな人間だ」という思いから抜け出せない
- 長い間ずっと続いてきたつらさを、性格の問題だと思い込んでいる
- 消えてしまいたいといった気持ちが浮かぶことがある
診断や治療方針を決めるのは医師です。当てはまるものがあれば、早めにご相談ください。
まとめ
転職・離婚・進学・病気の診断など、生活の変わり目でつらくなるのは自然なことで、これらはすべて「役割の変化」として整理できます。「いま自分は遭難しているのではなく、次の地点へ移動している途中なのだ」と捉え直せると、霧が晴れるように気持ちが軽くなることがあります。
大切なのは順番です。まず戸惑いや寂しさといった感情を十分に表現し、それから新しい役割の良い面や可能性に目を向けていきます。身近な支えが途切れたときは人とのつながりを育て直し、新しいスキルが必要なときは「相談する・頼む」という形で補っていけば大丈夫です。
変化のただ中にいるいまは大変でも、それは乗り越えられる変化です。一人で霧の中に立ち尽くす必要はありません。つらさが続くときは、どうか専門家に道案内を求めてください。
参考にした書籍(要約・再構成。原文の転載ではありません):
- 水島広子『対人関係療法入門ガイド』
- 水島広子『対人関係療法でなおす トラウマ・PTSD』
よくある質問
生活の変わり目で気分が落ち込むのは、心の弱さのせいですか?
いいえ。転職や離婚、進学などの変化は誰にとってもストレスで、適応にはエネルギーと時間が必要です。落ち込みは弱さではなく、変化に向き合っている途中の自然な反応であることが多いです。
「役割の変化」とは何ですか?
社会での立ち位置や、身近な人との関係性が変わるような変化のことです。転職・昇進・失業・離婚・進学・病気の診断などが含まれます。対人関係療法では、これを治療のテーマとして扱います。
つらい気持ちは早く忘れて前を向いたほうがよいのでしょうか?
急いで感情にふたをすると、かえって新しい環境になじみにくくなることがあります。まず戸惑いや寂しさなどの気持ちを十分に表現してから、新しい役割の良い面を探していく順番が役立つと考えられています。
新しい役割に必要なことが、自分にはできそうにありません。
必要なスキルのすべてを一人で身につける必要はありません。人に相談したり、頼んだり、調整してもらったりすることも立派な対処です。一人で抱え込まず、まず誰かに伝えてみることから始めてみましょう。