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はじめに

大人になってからADHD(注意欠如・多動症)の診断を受けた方、あるいは「自分もそうかもしれない」と感じている方から、よくいただく質問があります。「ADHDというと、すぐに薬を飲むことになるのでしょうか」というものです。

実は、英国の診療ガイドラインであるNICE(英国国立医療技術評価機構)のADHDガイドラインでは、大人のADHDについて、薬を検討する前に、まず環境調整を行うことが原則として示されています。薬はもちろん大切な選択肢のひとつですが、治療の入り口は薬だけではないのです。

この記事では、なぜ大人になってからADHDの困りごとが表面化するのか、ガイドラインのいう「環境調整」とはどんなもので、家庭や職場でどんな工夫ができるのかをお伝えします。なお、診断や治療方針の判断は医師が行います。ここでの内容は、相談の前に知っておくと役立つ目安とお考えください。

なぜ「大人になってから」困りごとが表面化するのか

まず知っておいていただきたいのは、ADHDは大人になってから発症する病気ではない、ということです。かかりつけ医向けの発達障害研修テキストでは、大人になってADHDが明らかになる背景が、次のように説明されています。

子ども時代は「構造」に守られていることがある

子どものころは、症状があったとしても、しっかりとした家庭や学校という環境の構造があり、本人に求められる負担や責任も限られています。そのため、特性があっても大きな支障に至らずに過ごせることがあります。

ところが大人になると、環境はより複雑になり、構造はゆるやかになります。家族からの独立、就職、結婚、出産——。こうした変化のなかで求められることが、本人の対処能力を超えたとき、ADHDの症状による機能の低下が表面化し、初めて受診につながることがあるのです。

世界保健機関(WHO)の世界精神保健調査(2007年)では、成人期ADHDの世界的な有病率は3.4%と推定されており、日本の調査では1.65%という報告があります。決してまれなものではありません。

この見方が教えてくれること

この経過は、大切なことを示しています。同じ特性を持っていても、環境の構造しだいで、困りごとの大きさは変わりうるということです。だからこそ、治療を考えるときも「環境をどう整えるか」が最初の柱になるのです。

ガイドラインの原則——薬の前に環境調整

NICEガイドライン(NG87)では、大人のADHDについて、環境調整を実施し、その効果を見直したうえでもなお、生活のいずれかの領域で症状による大きな支障が続いている場合に、薬物療法を提案するという順序が示されています。つまり、環境調整は薬の「代わり」ではなく、薬より先に行う土台という位置づけです。

環境調整とは何か

環境調整とは、ADHDの特性が日常生活の機能に及ぼす影響を小さくするために、本人が頑張って変わるのではなく、周囲の環境のほうを調整する工夫のことです。ガイドラインでは、次のような例が挙げられています。

  • 座席の位置を工夫する(気が散りにくい場所にする)
  • 照明や騒音を調整する
  • ヘッドホンを使うなどして、注意をそらす刺激を減らす
  • 集中する時間を短く区切り、体を動かす休憩をはさむ
  • 口頭での指示や依頼を、文書でも補ってもらう

大事なのは、これらが「誰にでも同じメニュー」ではないことです。ガイドラインでも、環境調整は一人ひとりの評価にもとづいて個別に考えるべきものとされています。

日本の診療では

NICEは英国のガイドラインですが、「まず環境を整え、そのうえで必要に応じて薬を検討する」という考え方は、日本の診療でも大切にされている原則です。日本でも成人のADHDに使える承認薬はありますが、薬を使うかどうか、いつから使うかは、環境調整の効果や本人の希望をふまえて、医師と相談しながら決めていきます。

家庭や職場でできる工夫の例

環境調整の考え方を、日常の場面にあてはめてみましょう。研修テキストでは、成人期のADHDでは仕事上の困難(情報をうまく処理・整理できない、仕事を完結できないなど)が特徴のひとつとされています。こうした困りごとには、例えば次のような工夫が考えられます。

職場での工夫

  • 締め切りや約束を忘れやすい場合は、口頭のやりとりだけにせず、メールやメモなど目に見える形で残してもらう
  • 長時間の集中が続かない場合は、作業を短い単位に区切り、合間に立ち上がるなどの小休憩をはさむ
  • 周囲の話し声や物音で気が散りやすい場合は、席の位置の変更やヘッドホンの使用を相談してみる

家庭での工夫

  • 物をなくしやすい場合は、鍵や財布などの置き場所を一か所に固定する
  • やるべきことを頭の中だけで管理せず、リストやリマインダーなど外部の仕組みに任せる
  • 生活の流れをできるだけ一定にして、判断や記憶に頼る場面を減らす

こうした工夫は「小手先の対策」に見えるかもしれませんが、ガイドライン上は治療の土台にあたる、れっきとした第一歩です。そして、何が効くかは人によって違うため、うまくいかなくても自分を責める必要はありません。診察では、その方の困りごとに合わせて一緒に考えていきます。

薬や心理的な支援との関係

環境調整を行い、見直してもなお大きな支障が残る場合には、薬物療法が選択肢になります。また、NICEガイドラインでは、薬を使わないことを選んだ方や、薬の効果が十分でない方に対して、ADHDに焦点を当てた構造化された心理的支援や、認知行動療法(考え方や行動のパターンを整理していく心理療法)の要素を含む支援を検討することも示されています。薬で改善はあるものの支障が残る場合に、薬と心理的支援を組み合わせる方法も挙げられています。

いずれの場合も、治療を始める前に、それぞれの選択肢の利点と負担、本人の希望や生活状況を話し合って決めていく——という共同の意思決定が重視されています。「薬か、薬以外か」の二者択一ではなく、組み合わせと順序を一緒に考えていくもの、と捉えていただければと思います。

受診の目安

次のようなことが続いている場合は、一度ご相談ください。

  • 仕事で締め切りや約束をたびたび忘れ、支障が出ている
  • 作業の段取りを立てたり、最後までやり遂げたりすることが極端に苦手で、工夫しても改善しない
  • 忘れ物・なくし物が多く、日常生活に影響している
  • 集中が続かず、気が散りやすいことで、周囲との関係にも影響が出ている
  • 自分なりに対処してきたが、就職や結婚などの環境の変化を機に、対応しきれなくなった

ADHDかどうかの判断には、現在の症状だけでなく、子ども時代の様子もあわせた慎重な評価が必要です。受診の際は、可能であれば通知表や母子手帳など子どものころの資料や、ご家族から見た様子の情報があると、診断の助けになります。診断は医師が行いますので、「自分はADHDかどうかわからない」という段階でも構いません。

まとめ

ADHDは大人になって発症するのではなく、環境の構造がゆるやかになり、求められることが増えるなかで表面化することがあります。だからこそ、NICEガイドラインでは、薬を検討する前にまず環境調整を行うことが原則とされています。

環境調整とは、本人が無理に変わるのではなく、座席や騒音、指示の伝え方といった環境の側を、一人ひとりに合わせて整える工夫です。それでも支障が残る場合には、薬物療法や心理的な支援が選択肢になり、どう組み合わせるかは医師と一緒に決めていきます。

「薬を飲むかどうか」で迷って受診をためらっている方も、まずは今の困りごとを整理するところから始められます。一人で抱え込まず、お気軽にご相談ください。


参考にした資料(内容の要約・再構成であり、原文の転載ではありません):

  • かかりつけ医等発達障害対応力向上研修テキスト「ADHDにおける診断の実際」(国立精神・神経医療研究センター)
  • NICE guideline NG87: Attention deficit hyperactivity disorder: diagnosis and management(英国国立医療技術評価機構)

執筆・監修:精神保健指定医 野口晋宏

よくある質問

ADHDと診断されたら、必ず薬を飲まなければいけませんか?

いいえ。英国のNICEガイドラインでは、大人のADHDでは、まず環境調整を行い、それを見直したうえでもなお生活に大きな支障が残る場合に薬を検討する、という順序が原則とされています。薬を使うかどうかは、本人の希望や生活状況をふまえて医師と一緒に決めていくものです。

環境調整とは、具体的に何をすることですか?

ADHDの特性が生活に及ぼす影響を減らすために、周囲の環境のほうを整える工夫です。例えば、座席の位置や照明・騒音の調整、ヘッドホンなどで気が散る刺激を減らす、集中する時間を短く区切って休憩をはさむ、口頭の指示を文書でも補ってもらう、といった方法があります。何が合うかは一人ひとり違うため、評価をふまえて個別に考えていきます。

子どものころは特に問題なく過ごせていたのに、大人になってからADHDと言われることはあるのですか?

あります。ADHDは大人になってから発症するものではありませんが、子ども時代は家庭や学校の構造がしっかりしていて負担も限られているため、困りごとが表面化しないことがあります。就職・独立・結婚・出産などで環境が複雑になり、求められることが対処能力を超えたときに、初めて明らかになる場合があると考えられています。

環境調整だけで薬を使わずに続けることもできますか?

環境調整で支障が十分に減るなら、それを続けるという選択もあります。一方、環境調整を行ったうえでもなお生活のどこかに大きな支障が残る場合には、薬物療法を検討する段階と考えられています。心理的な支援を組み合わせる方法もあり、どの組み合わせが合うかは診察のなかで医師と相談しながら決めていきます。

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執筆・監修

精神保健指定医 野口晋宏

春日メンタルクリニック院長。精神科・心療内科の診療経験をもとに、受診前の不安や制度の疑問を整理しやすい情報提供を心がけています。

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