はじめに
「些細なことで激しく怒ってしまい、あとで自分を責める」「人がどうしても信じられない」「いつも自分が悪いのだと感じてしまう」。こうした生きづらさを長く抱えてきた方の中には、「自分の性格が弱いせいだ」と思い込み、ひとりで苦しんできた方が少なくありません。
けれども、その苦しさは、あなたの性格や努力不足のせいではないかもしれません。逃げられない状況でトラウマ(心の傷を残すようなつらい体験)が繰り返されると、心と体には特有の反応が長く残ることが知られています。これを「複雑性PTSD」と呼びます。
同じように苦しんできた人は、決してあなただけではありません。この記事では、複雑性PTSDがどのような病態なのか、なぜ感情のコントロールが難しくなったり、人を信じられなくなったりするのかを、患者さんやご家族向けにやさしく解説します。「治りにくいうつ」や、よく似た病気との関係にも触れます。読み終えるころには、「自分を責めなくてよいのだ」と少し感じていただけたらと思います。
なお、ここで紹介するのはあくまで一般的な説明です。実際の診断は医師が行いますので、気になる点があれば抱え込まずにご相談ください。
複雑性PTSDとは
PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉は、もともと、命に関わるような怖い体験を一回したあとに起こる病態を主に想定して作られてきました。災害や事故、突然の暴力などがその典型です。
一方で、トラウマの中には、もっと深刻で見過ごされやすいタイプがあります。それが、家庭内の虐待やDV(配偶者・恋人からの暴力)などです。これらに共通するのは、逃げられない場所で、一方的な力関係のもと、長期にわたって繰り返されるという点です。
人は本来、つらい体験をすれば「二度とこんな思いはしたくない」と感じ、心と体に防御反応を起こします。これはおかしなことではありません。ところが、そのようなつらい体験が日常的に繰り返されてしまうと、防御反応がいつまでも解けず、特有の症状が積み重なっていきます。トラウマ研究の積み重ねの中で、こうした長期・反復するトラウマで生じる病態を「複雑性PTSD」と呼ぶことが提案されてきました。
複雑性PTSDの全体像は、「自分・身近な人・世界への信頼感が、とても広い範囲で、深く損なわれた結果」としてとらえると理解しやすいと言われています。あらゆる場面に危険があるように感じられ、誰を信じてよいかわからず、自分自身のことさえ信じられない。そんな状況の中で起こってくるのが、これから紹介する症状です。
感情のコントロールが難しくなる
複雑性PTSDでよく見られるのが、感情のコントロールの難しさです。具体的には、ふだんより低いレベルの刺激で、ふだんより強い感情がわき起こり、元の落ち着いた状態に戻るまで時間がかかるという傾向です。
とくに目立ちやすいのが怒りで、「容易に、強く、長く怒る」という形をとることがあります。まわりからは「些細なことでひどく怒り出し、自分で抑えられない」ように見えることも少なくありません。これは、常にピリピリと警戒している状態が、対人関係全般にしみ渡ってしまったものとも考えられます。
反対に、怒りを感じること自体を怖がる方もいます。怒りを表に出せず自分の中に抱え込んでしまい、人と親しくなることや、気持ちを打ち明けることを避けてしまう。その抱え込みが、自傷や過食といった行動につながることもあります。また、感情が高ぶると、次に説明する「解離」を一時的に起こす方もいます。
大切なのは、これらが「気持ちの持ちよう」や「わがまま」ではなく、トラウマの影響として理解できる反応だという点です。
自己破壊的・衝動的な行動と「解離」
複雑性PTSDでは、リストカットなどの自傷行為や、明らかに自分が損をするような行動を衝動的にとってしまうことがあります。こうした行動は、しばしば誤解されますが、その意味を知ることはとても大切です。
一般に、自傷は「自分を傷つけたいから」というより、つらすぎる感情からつかの間でも逃れるための行動であることが多いと言われています。たとえばリストカットも、「痛みを感じたいから」ではなく、「ぼうっとして心の痛みを忘れたいから」という理由のほうが多いのです。これは、強い苦痛から一時的に逃れるための「解離」を起こすきっかけとして行われている、と考えられています。
ですから、「自分を傷つけるのはやめなさい」とだけ言われても、本人には届きにくく、かえって「この苦しみをわかってもらえない」と感じさせてしまうことがあります。
解離とはどういう状態か
解離とは、意識のつながりやまとまりが、さまざまなレベルで途切れてしまう状態のことです。「自分を外から見ている感じがする」「現実感がない」「ぼうっとしている」といったものから、「よく覚えていない」「まったく記憶にない」というものまで、幅があります。
解離は、もともとは心を守るための働きです。あまりにつらい状況なのに、物理的にその場から逃げられないとき、「せめて心だけはその場から離れる」という、よくできた防御反応なのです。ただ、トラウマが長く繰り返されると解離が起こりやすくなり、危険のない日常でもストレスを感じるとすぐに解離してしまうようになると、生活に支障が出て「症状」となっていきます。
慢性的な恥、引きこもり、対人不信
複雑性PTSDのもうひとつの大きな特徴は、対人関係に現れるパターンです。子ども時代にトラウマを経験した方には、次のような傾向が広く見られることが指摘されています。
- 慢性的な恥の感覚:「自分には価値がない」「自分が悪い」と感じ続ける
- 社会的な引きこもり:人と親しい関係を結ぶことを避けてしまう
- 持続する対人不信:人は自分を守ってくれる存在ではなく、いつ害をなすかわからない存在に見えてしまう
- 親しい関係の中で、安心を強く求めたり、関係を突然断ち切ったりを繰り返す
たとえばDVの被害に遭った方が、加害者だけでなく「人間全般」を危険な存在として警戒してしまうことがあります。本来なら周囲に助けを求められる場面でも、誰も信じられず、ひとりで抱え込んでしまうのです。
こうした対人パターンは、本来なら成長の過程で身につけていくはずだった「人を信じる」「自分を大切にする」といった力が、トラウマによって妨げられた結果として理解されています。決して、本人の人格の問題ではありません。
なお、近年では、日本に多いとされる「ひきこもり」の一部について、子ども時代の不適切な養育による発達期のトラウマから複雑性PTSDが生じ、その延長として引きこもりに至るのではないか、という見方も提案されています。これはまだ一つの仮説ですが、「引きこもり」を本人の怠けではなく、トラウマの視点からとらえ直そうとする試みとして注目されています。
似ている病気・隠れているトラウマ
複雑性PTSDは、ほかの病気と症状が重なることがあり、見分けが難しい場合があります。ここでは代表的なものを二つ紹介します。診断は必ず医師が行いますので、自己判断はなさらないでください。
境界性パーソナリティ障害との重なり
境界性パーソナリティ障害は、感情の不安定さ、激しい対人関係、自傷の繰り返し、強い怒りなどを特徴とする病気で、子ども時代に虐待を受けている方が多いことが知られています。これらの症状は、複雑性PTSDととてもよく似ています。
「境界性パーソナリティ障害とは、実は複雑性PTSDなのではないか」と考える研究者もいるほどです。結論はまだ出ておらず、それほど単純ではないとも言われていますが、背景に反復したトラウマがあるという視点は、自分を責め続けてきた方にとって救いになることがあります。
「治りにくいうつ病」とトラウマ
反復するトラウマを経験した方は、慢性的なうつ状態を呈することでも知られています。PTSDらしい症状よりも、うつの症状のほうが目立つ方も少なくありません。
長く「治りにくいうつ病」と言われてきた方の中には、背景にトラウマが隠れているケースが珍しくないと指摘されています。なかなか良くならないと、「自分は一生この状態なのだ」とあせってしまいがちですが、見立てが変わることで治療の方向性が見えてくることもあります。
受診の目安
以下のようなことに心当たりがあれば、一度ご相談いただくことをおすすめします。
- 些細なことで強く長く怒ってしまい、自分でも抑えられず、あとで自分を責めてしまう
- リストカットなどの自傷や、衝動的な行動を繰り返してしまう
- 「自分を外から見ている感じ」「現実感がない」といった状態がたびたび起こる
- 慢性的に「自分が悪い」「自分には価値がない」という恥の感覚がある
- 人をどうしても信じられず、親しい関係を作ったり続けたりするのがつらい
- 虐待やDVなど、逃げられない状況での体験が長く続いた覚えがある
- うつの治療を受けているが、なかなか良くならないと感じている
これらに当てはまるからといって、すぐに複雑性PTSDと決まるわけではありません。診断は医師が行います。つらさを一人で抱えず、まずは話を聞いてもらうところから始めてみてください。
まとめ
複雑性PTSDは、逃げられない状況で長期にわたり繰り返されたトラウマによって生じる病態で、「自分・身近な人・世界への信頼感」が広く深く損なわれた結果と理解できます。感情のコントロールの難しさ、自傷などの自己破壊的な行動、解離、慢性的な恥や対人不信は、いずれもあなたの性格の弱さではなく、つらい体験への反応として説明できるものです。
境界性パーソナリティ障害や「治りにくいうつ」と見えていたものの背景に、反復したトラウマが隠れていることもあります。長く自分を責めてきた方こそ、その苦しさには理由があったのだと知ってほしいと思います。
安心できる場で話を聞いてもらい、人とのつながりの中で信頼感を少しずつ取り戻していくことは、回復への大切な一歩になります。最初からすべてを話す必要はありません。あなたのペースで大丈夫です。気になることがあれば、どうぞお気軽にご相談ください。
参考にした書籍(要約・再構成。原文の転載ではありません):
- 水島広子『対人関係療法でなおす トラウマ・PTSD』
- 『精神科診療におけるたとえ話の効用』(宮田量治『外傷性ひきこもり 日本的な複雑性PTSDへの支援と治療』の書評を含む)
よくある質問
複雑性PTSDとふつうのPTSDは何が違うのですか?
一般的なPTSDは、命に関わるような怖い体験を一回したあとに起こることが多い病態です。複雑性PTSDは、虐待やDVのように、逃げられない状況でトラウマが長期にわたり繰り返された場合に生じると考えられています。通常のPTSD症状に加えて、感情のコントロールの難しさや対人関係の問題が広く深く現れやすいのが特徴です。
自傷行為がやめられないのは意志が弱いからでしょうか?
いいえ、多くの場合は意志の弱さではありません。リストカットなどの自傷は、痛みそのものを求めているというより、つらい気持ちから一時的に逃れる(解離を起こす)ための行動であることが多いと言われています。責めるよりも、背景の苦しさに目を向けることが大切です。診断や対応は医師にご相談ください。
境界性パーソナリティ障害と言われましたが、トラウマと関係がありますか?
症状が複雑性PTSDとよく似ているため、背景に子ども時代からの反復したトラウマが隠れていることがあると指摘されています。両者の関係はまだ研究段階で、診断は医師が慎重に行います。自分を責めるのではなく、一度ご相談いただくことをおすすめします。
過去のことをよく覚えていないのですが、それでもトラウマの影響はありますか?
はい、あり得ます。「覚えていないこと」そのものが、つらい記憶から心を守るためのトラウマ症状の一つであることがあります。覚えていないから問題がない、ということではありません。気になる症状があれば、覚えているかどうかにかかわらずご相談ください。