福岡県春日市須玖北4丁目34 2階
休診日: 水曜・木曜・日曜・祝日

相談したほうがよさそうだと思って、予約画面を開きます。けれど、時間や費用、周りに知られる心配が浮かび、「今月を乗り切ってから」と閉じてしまいます。

受診すれば回復に向かうかもしれません。それでも、行かずにいれば今の仕事や暮らしを変えずに済むようにも見えます。

精神科の専門誌『精神科治療学』で平井啓氏が示したのは、このためらいを行動経済学の損失回避から捉える見方です。受診の先延ばしを、意志の強さとは別の角度から説明しています。

行かないほうが暮らしを守れるように見える

平井氏はまだ受診していない高ストレスの人について、「いまの仕事や暮らしをそのまま続けること」が判断の基準になっていると考えています。その基準から見た受診の得と損は、次のように整理できます。

受診する 受診しない
得と見えるもの 状態が回復に向かうこと いまの仕事や暮らしが保たれること
損と見えるもの 時間や費用の負担、周りに知られる心配、その後の仕事への影響 不調が悪化して働けなくなること、それに伴う暮らしの不安

四つのマスが同じ重さで目に入るとは限りません。時間を取り、費用を払うことは具体的です。「精神科は怖い場所だ」というイメージ、つまりスティグマがあれば、通院を知られる心の負担も受診の側に加わります。

一方で、受診による回復はまだ実感しにくく、行かずにいた先で働けなくなる可能性や暮らしの不安も見えにくいままです。受診の負担が大きく、受診しないことで保てるものも大きく映ると、先延ばしにつながるという説明です。

もらう1万円と失う1万円は釣り合わない

同じ1万円でも、もらうときと払うときで選び方が変わります。たとえば、次の二つから選ぶとします。

  • 確実に1万円をもらえます。
  • コインが表なら2万円をもらえますが、裏なら何ももらえません。

多くの人が選びやすいのは、確実にもらえるほうです。今度は支払う場面に変えます。

  • 確実に1万円を払います。
  • コインが表なら2万円を払い、裏なら払わずに済みます。

こちらでは賭けのほうが選ばれやすくなります。どちらの組み合わせも見込みの額は同じなのに、選び方が逆になります。

得られる喜びより、失うことを強く感じやすい傾きを損失回避といいます。認知心理学者のカーネマンとトベルスキーが提唱したプロスペクト理論の中心となる概念のひとつです。この解説では失ったときの心理的な大きさは得たときのおよそ2.5倍とされています。

損失回避は頭の中で損得を計算しているという説明ではなく、得と損の感じ方にある傾きを表しています。行動経済学でいう「非合理」は期待値の計算と合わないという意味であり、ためらう人の判断がおかしいという評価ではありません。

同じ水でも温かくも冷たくも感じる

片方の手を氷水に、もう片方を湯にしばらく浸けてから、両手を常温の水に入れるとどうでしょうか。同じ水なのに、氷水にあった手には温かく、湯にあった手には冷たく感じられます。

損得にもこれに似た基準があります。絶対的な金額だけではなく、自分の置いた基準から増えたか減ったかで価値を感じ取ります。プロスペクト理論でいう参照点です。人によって違い、経験や状況によっても動きます。

受診の話ではこの基準が「いまの暮らしを続けること」にある間は、受診による変化が損として見えやすくなります。ところが不調が重くなり、「このままではまずい」と思うと、不調のある状態そのものが基準になります。受診によって得られそうな回復や、行かないまま失いかねないものが見え、スティグマなどの負担を上回ったところで受診に至るという見方です。

基準が動くきっかけは不調の悪化だけではありません。家族や友人、同僚、産業医などが得られることや失われることを伝えるのも、そのひとつです。これは受診に至る道筋の説明で、症状が重くなる前から相談できます。

高ストレスと分かっても面談までが遠い

高ストレスと判定されることと、実際に面談に行くことの間には隔たりがあります。平井氏の解説で紹介された数字では、ストレスチェック後に医師との面談まで進んだ人は職場全体の0.5%でした。高ストレスの人が職場の10%を占めたとすれば、そのうち利用した人は5%程度です。うつ病などの精神障害のある人が精神科などの医療機関にかかっている割合も、およそ2割とされています。

「仕事が立て込んでいる」「落ち着いたら行きます」と先延ばしにする場面は、仕事をしている人に限らず、休んでいる人や仕事をしていない人にも重なるところがあります。

不調が始まってから専門機関にかかるまでの期間は、解説でDUIと呼ばれています。うつ病、不安障害、双極性障害、統合失調症では、この期間が短いことが経過のよさと関係するとされています。

平井氏らが専門機関への受診経験のある819名にたずねた調査では、不調を性格の弱さのせいだと思っていたこと、相談に壁を感じていたこと、治療を受けてもよくならないと思っていたことが、受診まで6か月以上かかることと関わっていました。一方で、「このままではまずいことになる」という受け止めは、受診までの期間が短くなる方向に働いていました。

「早く行かないと」が逆効果になることもある

では、「このままではまずい」ともっと強く伝えれば、受診は早まるのでしょうか。情報の示し方によって選び方が変わる現象を、フレーミング効果と呼びます。ただ、怖さを強調すればよいとは限りません。

恐怖をかき立てる伝え方は恐怖訴求と呼ばれます。繰り返すと危険の認識は高まっても、かえって遠ざかる反応を招くことがあります。平井氏が最も重要な点として挙げるのは、大半の人にとって精神科の受診や治療そのものが危険を伴う行為として受け取られていることです。そこに「早く行かないと取り返しがつかなくなる」と重ねても、行動は変わりにくく、いっそう遠ざけることがあります。

同じ解説に、乳がん検診の研究が紹介されています。検診には長期的な利益がある一方、知りたくない健康問題が見つかるかもしれないという短期的な負担もあります。そのため、受けない場合の不利益を伝える方法が使われますが、乳がん検診ではその方法の優位性はわずかだとされています。

そこで著者らは乳がんの危険をあまり感じていない人には受けない場合の不利益を、すでに危険を感じている人には早期発見・早期治療による利益を伝えました。このようにメッセージを分けた研究では、受診率が大きく上がったと報告されています。平井氏はこの伝え方の使い分けも参照点の違いと結びつけています。

面談を全員分用意してみたら

高ストレスと判定された人だけに面談をすすめると、声をかけられたこと自体が「心の弱い人と思われるのでは」という心配を生むことがあります。解説が提案するのは、入職時などに全員分の面談を用意する方法です。面談を受けることが高ストレスの人として選ばれた印ではなくなれば、その気がかりを避けられるという筋です。

選択を禁じたり、損得を大きく変えたりせず、選ぶ場面そのものを整える考え方をナッジと呼びます。

暴力や強い支配によって受診を止められる、行き先を監視される、お金を渡されないといった場合は、本人のためらいという説明には当てはまりません。安全の確保が先になり、相談先は安全が脅かされているときで確認できます。

解説は本人への問いかけを工夫する方法として、動機づけ面接法も挙げています。本人が自分にとって得になることと負担になることを可能な範囲で見渡し、いちばん大切にしたいものを選べるよう、支援する人が質問で手助けします。

「体調が落ち着いたら、やってみたいことはありますか」「これだけは避けたいと思うことは何ですか」と尋ねるイメージです。よくなった先に望むことと、失いたくないことを具体的にするための質問です。

どちらも支える側と制度をつくる側に向けた提案です。受診・受療の偏りを補える可能性はあるものの、効果はまだ十分に確かめられていないとされています。

ためらいの中身は思い過ごしとは限らない

費用や時間は実際にかかります。誰にどこまで知られるのか、薬を使うかどうかにも、確かめたり話し合ったりする中身があります。

平井氏は受診を促す工夫が有効だと確かめられても、治療や検査そのものが持つ危険まで大きく減るわけではない、と書き添えています。治療や検査はさまざまで、行動の偏りを補う工夫だけで誰の行動でも変えられるわけではありません。

ためらいを損失回避という言葉だけで片づけず、何が負担なのかを具体的に確かめることも相談の中身になります。費用の目安、通院は会社に知られるか、薬を飲みたくないときでは、それぞれの気がかりを扱っています。

迷っている間に暮らしはどう変わりましたか

迷っている間に、眠りや食事、仕事や家事はどうなっているでしょうか。次の状態が続いているときは、相談を考える目安になります。

  • 眠れない、食事が取れない、体重が落ちてきているなどの変化があります。
  • 仕事や家事、身のまわりのことができなくなってきています。
  • 朝になると体が動かない、休みの日に何もできず終わることがあります。
  • 気持ちが晴れない日が続いたり、涙が止まらなくなったりします。
  • お酒や市販薬の量が増えています。
  • 相談したほうがよいと思っては打ち消すことを繰り返しています。

当院では18歳以上の方を診療しています。予約はWEB予約(デジスマ)で、初診前にWEB問診にお答えいただきます。初診は問診を含め30分程度が目安で、服用中の市販薬やサプリメントも確認しています。通院の基本は2週間に一度で、再診は5分前後が目安です。

診察では変わることの段階という考え方も用いています。どうするかを決めかねている段階でも相談でき、決心がついてから受診する必要はありません。何があったかを話さずに受診することもでき、話さずにいることが体調に響いている場合は、その影響を診察で扱えます。


参考にした資料(要約・再構成。原文の転載ではありません):

  • 平井啓「損失回避と精神科領域における受診・受療行動」、『精神科治療学』第37巻第4号、特集「精神科臨床に役立つ心理学理論」、星和書店、2022年(行動経済学の損失回避から受診・受療行動を論じた解説)。

よくある質問

精神科の受診を半年以上迷っています。もう手遅れでしょうか。

本文の6か月以上という数字は、調査で受診までにかかった期間を示しています。資料は6か月を治療の期限として示しておらず、その数字だけで手遅れとは判断できません。いま続いている眠りや食事、仕事や家事の困りごとから相談を考えてください。

薬が心配で精神科に行けません。何から考えればよいですか。

「薬を使うか決めきれませんが、眠れなくて困っています」と、迷いと症状を一緒に伝える方法があります。薬の何が気がかりなのかも診察で話せる内容です。「薬を飲みたくないとき」でも扱っています。

会社に知られるのが心配で受診できません。これも損失回避ですか。

周囲に知られる心配は損失回避の説明にも出てきますが、その中身が思い過ごしとは限りません。誰にどこまで伝わるのかという具体的な疑問と、受診への気持ちを分けて考えられます。情報の扱いは「通院は会社に知られるか」で確認できます。

受診をすすめる家族には、何を伝えればよいですか。

時間、費用、周りに知られる心配など、何が気になるのかを具体的に伝える方法があります。たとえば、体調はよくしたいけれど通院が仕事に響くのは心配だというように、望むことと避けたいことを両方言葉にできます。家族からの声のかけ方は「家族の声のかけ方」で扱っています。

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執筆・監修

精神保健指定医 野口晋宏

春日メンタルクリニック院長。精神科・心療内科の診療経験をもとに、受診前の不安や制度の疑問を整理しやすい情報提供を心がけています。

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