つらい目に遭ったあとで、「そんなところに行くからだよ」「あなたにも隙があったんじゃないの」「もっと早く言えばよかったのに」と言われることがあります。心配しているつもりの人も、はっきりと非難する人もいますが、言われた側にはどちらも刺さります。
こうした言葉は、相手が何か落ち度を見つけた結果のように聞こえます。ところが、被害を知ったあとで、その結果に合う欠点を探しはじめるという逆の順番もあります。
「悪い目に遭った」から「悪い人」なのでしょうか
精神科の専門誌に掲載された北村英哉氏の解説には、社会心理学者ラーナー(Lerner)の実験が紹介されています。何も悪いことをしていない女性が罰される場面を見せられた参加者は、別の条件に置かれた参加者にくらべて、その女性を「罰を受けるだけの理由がある、よくない人」という方向に評価しました。
女性の落ち度が確かめられたのではなく、参加者が置かれた条件によって、女性への評価に差が出ました。罰されている姿を見たことが、その人はどんな人物なのかという判断にまで関わっていたのです。
人は「たまたま」で終わらせるのが苦手です
何かが起きると、人は「どうしてこうなったのか」と考えます。事件でも事故でも病気でも、原因をどこに置くかを推し量ります。この働きを社会心理学などでは「原因帰属(げんいんきぞく)」と呼びます。
原因の置き方はそのあとの行動にも関わります。試験に落ちた理由を準備不足だと考えれば、きまり悪さを感じながらも、もう一度勉強に力を注ぐ方向へ向かえます。同じ不合格でも、自分には才能がないと考えると、学ぶこと自体をやめてしまうかもしれません。
ただ、世の中には「たまたま運が向かなかった」としか言いようのない出来事もよく起こります。科学の言葉でいえば、確率でしか説明できない出来事です。人はそれを確率のまま受け取るのが苦手で、手近にいた人に原因を集めやすいとされています。
「あの人のせいでこうなった」と説明すれば、話は一気に分かりやすくなります。偶然が重なった出来事を、誰か一人の性格や行動で説明したくなることがあるのです。
「よい人は報われるはず」が揺らぐとき
理由を探す心の働きに、「よいことをした人にはよい結果が返ってきて、悪いことをした人は悪い目に遭うはずだ」という考えが重なります。人が幼い頃から持ちやすいこの信念を「公正世界信念」と呼び、ラーナーが提示した公正世界仮説は、こうした心の働きを捉えた考え方です。
現実の世の中ではその通りにならないことが多くあります。それでも、人はこの考えを簡単には手放しません。北村氏の解説はマース(Maes)の研究にも触れています。この世でずるく成功した人でも天国には行けないと考え、死後の報いまで含めて、世の中の公正さを保とうとする人の心理が示されているといいます。
ところが、刑事事件などでは、まったく落ち度のない人がしばしば被害に巻き込まれます。ラーナーはこれを公正世界信念にとっての脅威と捉えました。正しい人が報われるはずなのに、その人が傷つけられると、自分の信じている世界のあり方が揺らぎます。
そこで「悪い結果が起きたのだから、この人には何か悪い点があったはずだ」と、結果から人物の側へさかのぼって考えることがあります。解説ではこれを「逆向き推論」と呼んでいます。冒頭の実験でも、罰される女性の姿と、女性への否定的な評価が結びついていました。
落ち度を知って被害を説明しているように見えて、被害を知ってから落ち度を探していることがあります。世の中は正しくできていると信じたい気持ちが、何も悪いことをしていない人への不公正な評価につながるのです。
現実の例として挙げられているのが、性被害をめぐる裁判です。加害した側が、被害を受けた女性から性的に誘われたなどと主張し、被害者の側に原因や落ち度があったとする非難が寄せられることがあります。一部のSNSでも、同じ向きの意見が見られます。
責められたこと自体は実際に落ち度があったことの証明にはなりません。非難する側が結果に合う理由をあとから求めている場合があるからこそ、この二つは分けて考える必要があります。
「あの人と自分は違う」と思いたくなります
被害を受けた人に何の落ち度もなかったとしたら、自分や家族にも同じことが起こりえます。自分たちの命さえ100%思いどおりにはならないと考えるのは、こらえがたいことがあります。
そこで、被害を受けた人と自分との違いを探したくなります。あの人には落ち度があった、自分は違うのだから大丈夫だと思って、安心を得ようとします。こうした心の動きが、本人の自覚がないまま責める言葉になることがあります。
2020年前半には、新型コロナウイルスに感染した人を「気がゆるんでいた」「あちこち出歩いていた」と責める受け取り方が目立ち、コロナ差別と呼ぶべき事態になっていました。誰がいつ感染するか分からないと考えると、不安が大きくなります。感染した人の生活に原因を置ければ、自分との違いを見つけて安心しやすくなります。
病気を本人の責任にする見方について、解説は透析治療を受けている人を政治家が差別し、見下すような発言をした出来事も挙げています。心の病ではとくに、本人の心構えやものの考えようで何とかなるはずだ、という誤解が起こりやすいとしています。「やる気がないだけ」「周りに甘えている」といった見方もその一つです。
自分もかかりうるありふれた病気だと認めることには、怖さが伴います。その人の心構えが自分と違ったせいだと考えれば、自分は同じことにならないと思えます。安心を求める気持ちから、相手の状況を取り違え、差別や非難につながることがあるのです。
言う側の心理が分かっても、その言葉に納得したり、自分の責任として引き受けたりする理由にはなりません。腹が立つ気持ちまで抑える必要はありません。
暴力や強い支配のある関係には、相手の心理を理解して関係をよくしようとする話は当てはまりません。手が出ていなくても身の安全が先です。相談先は安全が脅かされているときにまとめています。
被害を受けた人が頭を下げるのはなぜでしょうか
戦地取材のために中東に入った報道関係者が捕らえられたとき、「自己責任」を掲げる非難が起こり、その家族が報道陣の前で頭を下げる光景がありました。被害を受けた側が謝るという場面です。
北村氏は危険との付き合い方を長く積み重ねてきたヨーロッパの社会と、危険をとりわけ嫌うとされる日本社会を対比しています。ヨーロッパでは思いきって動いたことがたたえられる場面もあり、自ら動いたこと自体は批判されにくいと説明しています。一方、日本では被害者の落ち度を大きく見積もり、「あんなところへ近づかなければ、こんな目に遭わなかった」と非難することにつながると考察しています。
その背景として紹介されているのが、山岸俊男が「安心社会」という言葉で捉えた日本社会のあり方です。毎年同じことを繰り返す農業の暮らしでは、いつもと違うことといえば日照りや台風、洪水で、ほとんどよいことがありません。変わらないことが安全だった暮らしから、何事もなかったことを喜ぶ気風が生まれたと説明しています。
これと対照的な場面として、北村氏は水の少ない砂漠を挙げています。そこでは雨という変化が恵みになり、動き回ることでオアシスに出会うかもしれません。同じ場所で待っていることが安全とは限らず、変化や新しい試みに価値があるという対比です。いつもと違うことが、危険になる暮らしも、幸運につながる暮らしもあるという考察です。
何事も起こらないことを尊ぶ社会では、いつもと違う出来事は起きたというだけで不吉なものと見なされます。すると、被害を受けた人まで「お騒がせしました」と頭を下げることになると、北村氏は説明しています。
「何様だ」と怒られる被害者もいます
被害の原因を本人に求めなくても、被害者の振る舞いを責める場面があります。北村氏が挙げているのは、被災した人が自治体の対応を強く批判したときに、「何様だ」と非難される例です。被災した理由とは別に、被害を受けた人にも控えめな態度を求める社会の期待があるという指摘です。
被害者の側に落ち度を探す話は被害が起きた時点の行動だけでは終わらないことがあります。
さらに北村氏は、新自由主義の影響を受けた社会では、不幸の原因を本人に求める説明が広がりやすいと述べています。貧しさを「自業自得」とする見方が、その例です。すべてを本人のせいと考えれば、社会が個人の生活を支える必要もないという話になり、社会保障への支出を減らす考え方とも結びつきます。
成長率が低く社会に余裕がないと、支出を抑える方針が人々に支持されがちだというのが、北村氏の考察です。同時に、医療・福祉・教育は社会を支え、次の世代まで持続させるために欠かせない営みだとも述べています。「全部本人のせい」という説明には、個人が安心を求める心理と、社会がどこまで人を支えるかという問題が関わっています。
研究者も自分の心を問い直していました
公正世界仮説の出発点にはラーナー自身の内面への気づきもあったといいます。北村氏の解説によれば、心の病がある人を能力が低いなどと不当に見下す現象を、自分の心にもある問題として捉えたことが、研究の発想につながりました。
被害者非難を防ぐために解説が挙げているのも、こうした傾きを自分自身のこととして知ることです。自分のなかにそれが出てきたとき、いったん引いて眺め、抑えられるようになることを勧めています。罪のない人を責めて得ようとしているのは、自分の心理的な安心にすぎないと知ることも含まれます。
不幸な人と自分を引きくらべる「社会的比較」の働きを知り、自分で扱えるようになることも挙げられています。人との比較に頼らず自分を肯定できること、自分の側に舵があるという感覚を持てること、そして自分自身をいたわる「セルフ・コンパッション」です。
これらは他者を責めてしまう側が自分の心理を扱うための話であり、責められた人への宿題ではありません。自己肯定感が低かったから責められたという説明でも、高めれば非難を防げるという約束でもありません。
言われた言葉を自分でも繰り返してしまうとき
責められた言葉が頭から離れず、自分でも同じ言葉で自分を責めてしまうことがあります。そうした自分への厳しさについては、自分に厳しすぎるとき 「甘えているだけ」と自分を責める声との付き合い方で扱っています。
次のような変化が続いているなら、出来事をうまく説明できるかどうかにかかわらず、相談の目安になります。
- 眠れない、食事が取れない、体重が落ちてきたといった変化があります。
- 仕事や家事、身のまわりのことができなくなってきています。
- 言われた言葉が頭のなかで繰り返され、止まらなくなっています。
- 人に会うのが怖い、外に出ると見られている気がするといった変化があります。
- 自分を責める考えが止まらなくなっています。
- 涙が止まらない、朝になると体が動かないことがあります。
当院では18歳以上の方を診療しています。予約はWEB予約(デジスマ)で受け付け、初診前にWEB問診にお答えいただきます。初診は問診を含めて30分程度、通院の基本は2週間に一度、再診は5分前後が目安です。
出来事の詳しい内容を話さないままでも、体調に響いていることを診察で扱えます。暴力や強い支配のある関係で出てきた症状も、ご自身の受診としてご相談いただけます。どうするかを決めかねている段階でも、今の眠りや食事、暮らしの変化からお話しください。
参考にした資料(要約・再構成。原文の転載ではありません):
- 精神科治療学 第37巻4号(2022年)特集「精神科臨床に役立つ心理学理論」より、被害を受けた人が非難される現象を公正世界仮説から論じた解説(北村英哉)。論文名「なぜ被害者バッシングが起きるのか―公正世界仮説―」、星和書店、2022年、405–408頁。
よくある質問
公正世界仮説は、世の中が実際に公平だという意味ですか。
人が世の中を公平だと信じたがる心の働きを捉えた考え方です。実際の出来事がいつも行いに見合う、という意味ではありません。
出来事の原因を考えることと、被害者を責めることは同じですか。
出来事の理由を探すこと自体は、原因帰属と呼ばれる心の働きです。被害という結果から本人に欠点があるはずだと考える逆向き推論では、結果に合う理由をあとから探しています。原因を考えたというだけで、その説明が正しいと確かめられたことにはなりません。
被害者を責める人には、必ず悪意があるのでしょうか。
本人が自覚しないまま責める言葉が出てくることもあります。ここで紹介したのは、悪意があるかどうかを判定する話ではなく、自分の不安や世界の捉え方が非難に関わることがあるという説明です。そうした心理が分かっても、責められた側がその言葉を受け入れる理由にはなりません。