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はじめに

人前で話すとき、視線を合わせないように下を向く。赤面を見られないようにマスクをする。話す前に、頭の中で何度もセリフをリハーサルする——。人と接する場面が怖いと感じている方の多くが、こうした「自分を守るための工夫」を無意識のうちに続けています。

こうした行動は、認知行動療法の考え方では「安全行動」と呼ばれます。本人にとっては「これがあるから何とか乗り切れている」お守りのような行動です。ところが少し不思議なことに、この安全行動こそが、社交不安を長引かせる大きな要因のひとつだと考えられています。

この記事では、社交不安症(人前や対人場面で強い不安や恐怖を感じ、生活に支障が出る状態)における安全行動とは何か、なぜそれがかえって不安を強くしてしまうのか、そして治療ではどのように扱っていくのかをお伝えします。なお、診断や治療方針の判断は医師が行います。ここでの内容は、相談前に知っておくと役立つ目安とお考えください。

安全行動とは——「最悪の事態」を防ぐためのお守り

安全行動とは、対人場面で「恐れている最悪の事態」が起こらないように、本人がとっている行動のことです。たとえば次のようなものが典型例として挙げられています。

  • 視線(アイコンタクト)を避けて、下を向く
  • 赤面や表情を見られないように、顔を隠す、マスクや伊達メガネをつける
  • 震えが出ないように、グラスやマイクをきつく握る
  • 端のほうにいて、気づかれないようにする
  • 言葉数を少なくして、なるべく黙っている
  • 頭の中で言うことをリハーサルし、検閲してから話す
  • 原稿やカンペを用意して話す
  • 余裕があるかのように作り笑いをする

背景には、「どもってしまう」「ばかだと思われる」「不安が顔に出て気づかれる」といった考え(自動思考と呼ばれます)があります。安全行動は、その恐れている結果を防ごうとする、本人なりの理にかなった対処なのです。だからこそ、「そんなことやめればいい」と簡単には言えませんし、ご自身を責める必要もまったくありません。

なぜ安全行動が不安を強くするのか

それでも安全行動が問題になるのは、次のような悪循環につながりやすいためです。

「大丈夫だった」と確かめる機会を失う

安全行動をしたまま場面を乗り切ると、「安全行動のおかげで最悪の事態にならなかった」という理解が残ります。すると、「もし安全行動をしなかったら、恐れていたことが本当に起こるのか」を確かめる機会が失われ、不安のもとになっている予想はそのまま持続してしまいます。実際にはそれほど起こらないことでも、検証されないかぎり「起こるはずだ」という確信は変わりにくいのです。

注意が自分にばかり向いてしまう

安全行動を「ちゃんとできているか」を見張るには、自分の体や振る舞いを常にモニタリングする必要があります。その結果、注意のほとんどが自分の内側——心臓のドキドキ、声の震え、頭に浮かぶ自分の姿——に向いてしまいます。これは「自己注目」と呼ばれる状態です。

自己注目が強まると、外の世界、つまり相手の実際の反応に注意を向ける余裕がなくなります。相手がうなずいてくれていた、興味をもって聞いてくれていた——そうした現実の情報に気づけないまま、「こんなに不安で震えを感じているのだから、相手からもさぞ不安そうに見えているに違いない」と、自分の内側の感覚だけを材料にして、実際よりも否定的な自己イメージをつくり上げてしまいやすくなります。

かえって不自然に見えてしまうことがある

安全行動そのものが、周りから見ると少し不自然に映ってしまう場合もあります。たとえば、頭の中の台本どおりに話そうとして受け答えが堅くなる、黙り込んでしまう、視線を合わせない、といった具合です。緊張を隠そうとした行動が、結果的に「隠したかったもの」を目立たせてしまうことがあるのです。

出来事の前後の「ぐるぐる」も同じ仲間

安全行動は、その場面の最中だけの話ではありません。人と会う前に何時間も準備やリハーサルを繰り返すこと、終わったあとに「一人反省会」をしてくよくよ考え続けることも、同じ悪循環の一部と考えられています。

対人場面では、自分がどう見えていたかについて、はっきりしたフィードバックをもらえることはめったにありません。だからこそ後から一人で考え込むのですが、後から考えるほど否定的な自己イメージは膨らみやすく、実際には存在しなかった「失敗の証拠」を記憶してしまうことすらあると指摘されています。

もちろん、事前の準備が役立つ場面があるのも事実です。大切なのは、その習慣のメリットとデメリットを整理し、デメリットのより少ないやり方を探していくことです。

治療では安全行動をどう扱うのか

社交不安症に対しては、日本のガイドライン(2021年)で、薬物療法としてSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)などの抗うつ薬が、精神療法としては社交不安症の治療に特化して開発された認知行動療法を、習熟した治療者が一連の手順に基づいて行うことが、それぞれ選択肢として提案されています。

その認知行動療法の中で、安全行動は中心的なテーマのひとつです。たとえば、安全な設定のもとで「安全行動をしながら自分に注目して話す場合」と「安全行動をやめて相手に注目して話す場合」を実際に比べてみて、不安の感じ方や疲れ方の違いを本人が体験的に確かめていく、といった進め方がとられます。多くの方が想像するのと違い、「無理やり怖い場面に放り込む」ものではなく、予想と現実のずれをひとつずつ確かめていく丁寧なプロセスです。

大事なのは、これを自己流で一気にやる必要はないということです。どの安全行動から手をつけるか、どんな場面で試すかは、状態に合わせて調整していくものです。「自分の場合はどうだろう」と気になったら、診察で相談していただければと思います。

受診の目安

次のような状態が続いているときは、一度ご相談ください。

  • 人前で話す、食事をする、電話をするなどの場面に強い恐怖があり、避けることが増えている
  • 安全行動や事前の準備・事後の反省に多くの時間と労力を使い、疲れ切ってしまう
  • 対人場面への不安のために、仕事・学業・人づきあいに支障が出ている
  • 「性格だから仕方ない」とあきらめて、生活の幅がどんどん狭くなっている

つらさが強く、消えてしまいたいような気持ちが出ているときは、期間を問わず早めの受診をおすすめします。緊急の場合は救急(119)や主治医にご連絡ください。

まとめ

安全行動は、恐れている事態を防ぐための本人なりの工夫であり、責められるべきものではありません。しかしそれを続けるうちに、「実際は大丈夫だった」と確かめる機会が失われ、注意が自分の内側にばかり向き、否定的な自己イメージが強まる——という悪循環が生まれやすくなります。

社交不安症には、薬物療法や認知行動療法といった選択肢があり、安全行動の悪循環は治療の中で少しずつほどいていくことができます。長年「あがり症な性格」と思ってきた方も、一度ご相談いただければと思います。


参考にした資料(内容の要約・再構成であり、原文の転載ではありません):

  • 社交不安障害(社交不安症)の認知行動療法マニュアル 治療者用(厚生労働省科学研究費補助金研究班)
  • 社交不安症の診療ガイドライン(日本不安症学会・日本神経精神薬理学会、2021年)

執筆・監修:精神保健指定医 野口晋宏

よくある質問

安全行動は、明日からすべてやめたほうがよいのでしょうか?

自己判断で一気にやめる必要はありません。治療の中では、安全行動をした場合としない場合を安全な設定で比べてみて、その違いを本人が確かめながら進めていきます。どのように取り組むかは、状態に合わせて医師や治療者と相談しながら決めていくのが安心です。

人と会う前に頭の中で入念にリハーサルするのは、よい準備ではないのですか?

準備が役立つ場面も実際にあります。ただ、過剰なリハーサルを続けると、堅い台本どおりに話そうとしてかえって不自然になったり、疲れや不安が増したりしやすいと考えられています。メリットとデメリットを整理し、デメリットの少ないやり方を探していくことが治療の中で行われます。

社交不安症の治療には、薬とカウンセリングのどちらがよいのでしょうか?

日本のガイドラインでは、薬物療法としてSSRIなどの抗うつ薬が、精神療法としては社交不安症に特化した認知行動療法が、それぞれ選択肢として提案されています。どちらが合うか、併用するかどうかは、症状や生活の状況に応じて医師と相談して決めていきます。

緊張したときにマスクや伊達メガネで顔を隠すのも安全行動ですか?

赤面や表情を見られないように顔を隠す行動は、典型的な安全行動のひとつとされています。ただし、行動そのものが悪いわけではなく、「恐れている結果を防ぐために手放せなくなっているかどうか」が目安になります。判断に迷うときは診察でご相談ください。

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執筆・監修

精神保健指定医 野口晋宏

春日メンタルクリニック院長。精神科・心療内科の診療経験をもとに、受診前の不安や制度の疑問を整理しやすい情報提供を心がけています。

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