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「逆境依存」は、正式な医学用語でも診断名でもありません。仕事のトラブルがようやく片づいた夜、ほっとするはずなのに胸がそわそわして、次の問題を探してしまうことはないでしょうか。忙しさや緊張から解放されたときほど落ち着かないなら、苦労が好きなのではなく、静かな時間にまだなじみがないだけなのかもしれません。

「逆境依存」は病名ではありません

「逆境依存」という言い方には、困難が続く状況から抜け出しにくい感じや、平穏なときほど居心地が悪い感じを表す響きがあります。ただ、ネット上の使われ方に確立した定義があるとは言えず、この言葉による検査や診断基準もありません。

山積みの仕事を片づけてようやく休日を迎えたのに、予定が何もないと不安になります。穏やかに接してくれる相手にさえ、「いつか態度が変わるのでは」と身構えてしまいます。そう感じることがあっても、病気と決まるわけではありません。

気をつけたいのは、「自分で苦労を選んでいる」「苦しむのが好きなのだ」という受け取り方です。精神分析家のナンシー・マックウィリアムズは、苦しい関係にとどまる行動を、痛みそのものへの好みとは区別しました。関係を守りたい、もっとつらい事態を避けたいといった理由が、そこにあるかもしれないからです。

トラウマ研究者のジュディス・ハーマンも、つらい体験が繰り返されるのを本人が望んだからだとする見方を批判しています。繰り返すことと、求めることは違います。

「アドレナリンへの依存」という比喩もありますが、これは医学的な説明ではありません。では、落ち着けるはずの場所で、なぜ落ち着けないのでしょうか。

子ども時代の「逆境」は、大事件だけでしょうか

「子どもの頃に大きな事件は?」と聞かれても、思い当たらないかもしれません。けれど、帰宅した大人の機嫌を毎晩確かめるような、日々の緊張も考えられます。

子ども時代の厳しい経験とその後の心身の健康との関係を調べる研究では、ACE(小児期逆境体験)という言葉が使われます。初期のACE研究が対象にしたのは、身体的・心理的・性的な虐待、家庭内の暴力、同居家族の問題などで、のちにネグレクトも加わりました。こうした項目を数えて、成人期の健康との関連を調べます。

ここでいう逆境は、家庭の中だけに限られません。近年は学校でのいじめ、子どもの頃の貧困、自然災害など、生活環境や社会の側にある困難も含めて考える研究が出てきました。家庭だけでは捉えきれない経験もあるのです。

日本でも、佐々木らがACEの対象を広げた研究を報告しています。全国規模のオンライン調査の回答者28,617人を分析し、幼少期の逆境体験と成人期の強い心理的苦痛との関連を示しました。使われた日本版の尺度は15項目で、家庭内の経験だけでなく、いじめや経済的な困難なども扱っています。

ただし、ACEを数えればその人の現在や未来が分かるわけではありません。何を逆境として数えるかは調査によって異なり、割合もそのまま比べることはできません。日本の研究も、オンラインの参加者が過去を思い出して答えた調査です。記憶や回答の偏り、調べきれない要因が影響している可能性は残ります。

研究が教えてくれるのは、子ども時代の環境と大人になってからのつらさを切り離さずに考える理由がある、ということです。「ACEがあるから逆境依存になる」と証明されたわけではありません。数字は自分に貼る札にせず、「あの頃はどんな空気の中で過ごしていたのだろう」と考える手がかりにしてみてください。

子どもは、どこで「安心していい」と覚えるのでしょうか

遊んでいる子どもは、ときどき振り返って親の姿を確かめます。戻れば守ってもらえると分かっているから、安心して離れていけるのです。愛着理論では、こうした拠点を「安全基地」と呼びます。安心できる場所があるからこそ、そこから外へ出ていけるのです。

子どもは大人との毎日のやりとりを通して、人はどんなときに応えてくれるのか、自分が困ったら助けてもらえるのかを学びます。泣いたら気づいてもらえて、怖いときは近づけば落ち着けます。そうした経験が、相手や自分をどう見るか、その後の人間関係をどう予想するかの土台になります。

一方、大人の反応が日によって変わる環境では、何をすれば安全なのかが分かりにくくなります。昨日は笑って許されたことが、今日は怒りのきっかけになるのです。すると、遊びや好奇心より先に、声の調子や足音、表情の変化を確かめることが大切になるかもしれません。

さらに難しいのは、守ってほしい相手が同時に怖い相手でもある場合です。近づきたいのに、近づくと傷つくかもしれません。逃げたいのに、その人から離れるのも不安です。トラウマ研究では、こうした逃げ道の乏しい関係の中で、子どもがどう身を守ろうとするかが論じられています。

相手の機嫌を読んだり、起きたことを小さく考えようとしたりするのは、関係を保ちながら暮らすための対応だったのかもしれません。それを大人になってからの「性格の欠点」と決めつけるのは早すぎます。過去の家庭環境だけで、現在の状態に診断名をつけることもできません。

そして、かつて危険を避けるために覚えた警戒は、考え方だけでなく体にも残ることがあります。

危険が去っても、体の警報が止まらないとき

静かな部屋に帰ってきたのに、廊下で物音がすると体がびくりと動きます。誰かが不機嫌そうに息をついただけで、何か失敗しただろうかと考え始めます。頭では「ここは安全な場所だ」と分かっているのに、体のほうが先に反応することがあるのです。

危険に出会うと、人の体は普段と違う働き方をします。交感神経が活発になり、周囲の変化に注意が向き、逃げるか立ち向かうかに備えます。その瞬間には、空腹や疲れ、痛みさえ感じにくくなることがあります。これは体が壊れたから起きる反応ではなく、危険から身を守るために備わった働きです。

問題は、危険が去ったあとも、その反応がすぐには収まらないことがある点です。ジュディス・ハーマンは、抵抗も逃走もできないような体験のあと、身を守るための反応が長く残ることを論じています。危険な場面では役立った警戒が、安全な場所で過ごすときにはかえって負担になるのです。

トラウマ研究では、警戒や緊張の高い状態が続くことを「過覚醒」と呼びます。ささいな音に驚きやすくなったり、ちょっとした言葉にいらだったり、夜になっても眠りに入りにくかったりします。刺激に少しずつ慣れていくことも難しくなり、繰り返し聞こえる音にその都度新しい危険のように反応する状態も報告されています。休める時間になっても、体の中では見張り番が交代していないようなものです。

子どもの頃に、相手の顔色で次の展開を予測しなければならなかった場合はどうでしょう。眉がわずかに動く、声が少し低くなる、歩く速さが変わるといった小さな合図を読み取ることが、身を守る方法だったのかもしれません。ハーマンの説明によれば、虐待のある環境で育つ子どもは相手の表情や声、身ぶりの変化に非常に敏感になり、その見極めは意識しないうちに働くようになります。大人になってからも理由を考えるより先に身構えてしまうなら、かつて覚えた対応が関わっている可能性があります。

長く強い緊張にさらされた人には、頭痛や胃腸の不調、動悸などの身体症状がみられることもあります。いつも緊張していると、その状態を「自分の普通」と感じ、何に備えているのか自分でも分からなくなるかもしれません。過去の出来事は終わったのに、体だけがまだ続きを待っているような感覚です。

ただし、ここで紹介したのはトラウマ反応やPTSDに関する研究と臨床的な説明です。「逆境依存」と感じる人には必ず過覚醒がある、という診断の話ではありません。それでも、落ち着けない理由を性格や意志の弱さだけに求めなくてよいという視点にはなります。

何も起きない日が、なぜ落ち着かないのでしょうか

穏やかな相手と食事をしていても、なぜか気が休まらないことがあります。相手は怒っていないのに、会話が途切れると「何か気に障ったのでは」と気になります。尋ねてみて「何でもないよ」と返されると、今度はその言葉を信じてよいのかが不安になります。何も起きていない時間に、次の出来事を待ち構えているようです。

反応の読めない相手のそばでは、静けさが安心の合図になるとは限りません。昨日まで機嫌がよかった人が突然怒ったり、守っていたはずの決まりが急に変わったりする環境では、何も起きない時間にも「まだ分からない」という緊張が残ります。ハーマンは、予測できない暴力や恣意的な決まりが、人の恐怖や無力感を強めうることを描いています。

ここで、少し不思議な行動が起こることがあります。怒られるかどうか分からないまま待つよりも、自分から話を切り出して、相手の怒りを引き出してしまうのです。そうすれば、いつ起こるか分からなかったことが、少なくとも今起きたことになります。相手を変えられなくても、出来事の始まりだけは自分で選べたように感じられます。

精神分析家のナンシー・マックウィリアムズは、こうした動きを、予測のつかない不快な出来事を自分から起こすことで、待つ不安や無力感に対処しようとする試みとして説明しています。もちろん、これは精神力動的な見立ての一つで、平穏への不安が生じる理由を一つに確定した研究結果ではありません。人が衝突を起こす理由のすべてに、この説明を当てはめることもできません。

親しい人との関係では、離れたいのに離れると不安になり、近づくと今度は傷つくのが怖くなる場合もあります。距離を置くことと、つながりを強く求めることの間を行き来するのです。外から眺めると、わざわざ関係を難しくしているように見えるかもしれません。しかし本人の中では、安全を確かめたい気持ちと、これ以上傷つきたくない気持ちが並んでいるのかもしれません。

平穏な時間に落ち着けないことは、その人が苦労を望んでいる証拠ではありません。 静けさを安心として受け取るための経験に、まだ十分になじんでいないのかもしれません。

同じ苦しみを繰り返すのは「好きだから」でしょうか

「また同じような人を選んでしまった」「前にもこれで苦しんだのに」と考えることがあります。同じ問題に戻ったように感じると、自分がいちばん厳しい批判者になってしまうかもしれません。周囲の「嫌なら離れればいい」という言葉も、自分を責める声に重なります。

けれど、苦しみが繰り返されることと、苦しみを欲していることは違います。ハーマンによれば、過去のつらい体験が記憶や夢、行動の形で再び現れるとき、多くの人はそれを望むどころか恐れています。繰り返されるからといって、本人の意思で選んだとは言えません。

子どもは、養育者との関係を簡単に選び直せません。起きたことを小さく考えたり、相手に合わせたり、怒りが爆発する前に何とかしようとしたりします。そうした対応には、逃げにくい環境で暮らしを続けるための意味があったのかもしれません。大人になって選択肢が増えても、以前のやり方だけが先に動いてしまうときがあります。

先に見たマックウィリアムズの見立てでは、結果的に傷つく行動の裏にも、待つ不安や無力感を何とかしたい気持ちがあると考えます。安心したい気持ちと身を守りたい気持ちが、同時に働いているのかもしれません。

ただし、これは行動を理解するための一つの見立てで、今の困りごとをすべて子ども時代の経験から説明できるわけではありません。特に、暴力や支配を受けている人に「自分で被害を引き寄せた」と言うのは誤りです。暴力の責任は加害する側にあり、背景を理解することと、その危険に耐え続けることは別です。

かつて身を守ってくれた方法が今は自分を苦しめているとしたら、「どうしてこんな自分なのか」と責めるより、今は何を選べるのかに目を向けてみたいところです。過去の反応を責めずに、これからの選択を少しずつ取り戻すことはできます。

平穏には、少しずつ慣れていくものです

「安全な場所にいるのだから、もっとリラックスしなくては」。そう考えるほど体が緊張する日もあるかもしれません。場所が安全になっても、身についた警戒はすぐには消えないことがあります。

ハーマンは、トラウマからの回復を考えるとき、まず安全を整え、自分の生活を自分で動かせる感覚を取り戻すことを重視しています。その安全は、「怖くないと思い込む」という気持ちだけの話ではありません。眠ること、食べること、安心して過ごせる住まい、生活費の見通し、助けを求められる人とのつながりも含まれます。

過去を整理することから始めなくてもよいのです。今夜は休める場所があるか、明日少しでも自分の意思で決められることはあるか、無理をせずに頼れる相手はいるか。そんな小さな問いは、かつて自分では決められなかったことを、少しずつ自分の手元に戻すための問いでもあります。

ハーマンは、回復のなかで平凡な日常が面白くなってきたという当事者の体験を紹介しています。何も起きない午後を、ただ何も起きない午後として過ごせることは、決して小さな変化ではありません。

「困難がないと生きられない」のではなく、困難のない時間を、これから自分のものにしていけるのです。

よくある質問

Q. 「逆境依存」は精神的な病気なのでしょうか? 正式な医学用語や診断名ではなく、「逆境依存」という一つの病気があるわけではありません。落ち着けない背景には、トラウマ後の過覚醒や対人関係の難しさが関わることもあります。ただし、この言葉だけで原因や診断が決まることはありません。

Q. 子ども時代に逆境体験があると、大人になって平穏が怖くなるのでしょうか? ACE研究が示したのは、幼少期の経験と、大人になってからの健康や心理的苦痛との関連です。逆境を経験したら平穏が怖くなると証明した研究ではありません。過去の体験を数えるだけで、その人の現在や将来を決めることもできません。

Q. 平穏な生活でも落ち着けないとき、何から始めればよいですか? まずは今の暮らしの安全や、睡眠・食事・休息の土台を確かめるところから始められます。過去を無理に掘り返したり、急いでリラックスしようとしたりする必要はありません。小さくても自分で決められることや、頼れるつながりを大切にしてみてください。

参考にした資料(要約・再構成。原文の転載ではありません)

  • 尾崎仁・田中究「児童期のマルトリートメントがこころの発達に及ぼす影響」『精神科治療学』第36巻1号、星和書店、2021年。
  • Nancy McWilliams『パーソナリティ障害の診断と治療』創元社、原著1994年。
  • Judith Lewis Herman『Trauma and Recovery』Basic Books、1992年(改訂版1997年・2015年)。
  • Natsu Sasakiほか「Effects of expanded adverse childhood experiences including school bullying, childhood poverty, and natural disasters on mental health in adulthood」『Scientific Reports』Springer Nature、2024年。

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執筆・監修

精神保健指定医 野口晋宏

春日メンタルクリニック院長。精神科・心療内科の診療経験をもとに、受診前の不安や制度の疑問を整理しやすい情報提供を心がけています。

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